近年「断捨離」が流行っており、よく本屋で平積みになっています。このことは現代の日本人が今の時代の価値観に疑念を抱くようになっていることの反映ではないだろうか。質素倹約は過去の話となり、物質的豊かさを享受するこの大量消費社会の価値観に違和感を持ち始めた人も少なからずいるのでしょう。(関連記事:こんまり流「本の片付け・断捨離術」のシンプルな本質とは?)
「断捨離」というのは、整理整頓により、人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようという考えです。つまり…
断=入ってくる要らない物を断つ
捨=家にずっとある要らない物を捨てる
離=物への執着から離れる
ヨガの「断業」「捨行」「離行」が元ネタだそうです。この考えは、やはり同じくインドに端を発する仏教にも通じるように思えます。そこで、この「断捨離」のように、仏教からも役に立つ教えを見出したいものです。
仏教以外の物事について導く・説明するための手法のことを方便といいます。昔、民主党の鳩山由紀夫首相(当時)が沖縄の米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)移設問題に関し、県外移設の断念理由に米海兵隊の抑止力を挙げたことを「方便」と言ったのですが、どうやらこれは方便として機能しなかったようでしたね。それはさておき、本書は様々な名僧の言葉が平易な現代語訳で収録されており、方便として人生にとても役に立つ考えがある。琴線に触れたものを順次紹介していこうと思います
『大きな楽しみを得るためには、小さな楽しみを捨てることが大切です。日常から自分にとって、ほんとうに大切なものは何であるかを良く考えて見極め、不要なものには執着せず、省き捨てる決断をすることが大切です。』 by釈迦
まずは、お釈迦様から。習慣的な小さな楽しみの積み重ねと、日頃は我慢して大きな楽しみを得るのとではどちらがよいでしょうか。一概に言えないとは私も思いますが、どうやらお釈迦様は「選択と集中」という物事の要諦を悟っておられたことがよくわかりますね。
『心からやすらぎ心を得ようとして、自分の心に固守すれば、心は迷い定まらなくなります。心を得ようと意識すると、それが心の呪縛となってしまうもので、そうした安らぎの心への執着からは離れることも肝心なのです。』 by一遍
どうしても手に入れようとすると、逆に手に入れることから遠ざかってしまう逆説。執着のしすぎは逆効果になることもあろうから、むしろ逆に適度の距離感をもつことで、自ずから求めるものが手に入るのかもしれませんねn。
『ものごとを速やかに悟るためには、様々な世の中の情報や知恵に長けてずる賢くなるより、ひたむきに、着実に自分のやるべき事に向かって努力するべきです。そのほうが実際にはほんとうの悟りを得られるのです。』 by 道元
道元のこの言葉は、もちろん生き方全般において適用可能でしょう。雑音に惑わされず一意専心で邁進する、シンプルです。
『寒いときは、寒さから逃げずに自分を寒さの中において殺し、暑い時には、暑さから逃げずに自分を暑さの中において殺す。嫌なことは、このようにして毅然と立ち向かって自ら一体となれば、おのずとなくなるものです。』 by洞山
故三沢光晴氏の言葉を思い出します。
「ときには相手の得意技をわざと受けて身体的な強さをアピールすることもあるプロレスだが、それは受け身の確かなる自信があってこそ体現できる最高峰の技術といっていい。」
「打撃とは、相手の予測を裏切るものでなければ、いくら大きな威力を持つ技であっても致命的なダメージは与えられない。」
あえて受けることで、逆に大きなダメージを受けない多分に逆説的な考え方ですが、この考え方を私達に人生んい置き換えて見るなら、逃げないことは、嫌なこと、恐ろしいことに対して有用だということでもあります。このことに通じる名言としては、やはり次の二つが挙げられるでしょう。
「恐怖は逃げれば倍になるが、立ち向かえば半分になる(チャーチル)」
「恐怖の数の方が、(実際の)危険の数より常に多い(byセネカ)」
『災難が訪れたならば、災難に遭えばいい。死が訪れたならば、死ねばいい。逃れることが出来ない自体に遭遇したときには、あわてずにその中に天命を待つという落ち着いた心構えが、災難を逃れるもっとも優れた方法です。』 by良寛
三沢光晴の著書「理想主義者」の中で、受身について語っている箇所を思い出しました。プロレスに殉じ、試合に臨む覚悟とは、まさしく良寛和尚の言う境地にまで達していたのではないかと思います。その死がヘビー級のタッグタイトルの試合であり、長年の激闘で満身創痍にも関わらず、それでも戦いに身を投じる覚悟とは、いかばかりのものだったでしょうか。万一の事態があった場合に、その相手となったレスラーへの手紙をしたためていており、それが最後の対戦相手の一人・齋藤彰俊選手に渡ったのだそうです。
逆境に対する賢者の対処ということとなると、セネカの「摂理について」も思い出します。仏教の蘊奥はストア哲学に通じるところがあると思います。
『「なぜ多くの逆境が善き人に生じるのですか?」善きものに悪は何一つ生じえない。正反対のもの同士は混ざらないからである。それはちょうど、かくも多数の河川が上空から落下した、かくも多量の雨水が、鉱泉のかくも多大な成分が、海の味を変えないどころか、薄めすらしないのと同じである。同様に、逆境の攻撃は勇者の精神を背かせはしない。同じ姿勢を保ち、生じ来るいっさいを己の色に変える。いかなる外部の事象よりも強力だからである。それを感じないというのではない。打ち克つのだ。』
『ことばは、ことばの碇を用いて発言を慎むことが大切です。言うべきことは、堂々と発言し、言うべきでないことは、その言葉に碇を下ろす。また、言っても言わなくても良いことにも、碇を下ろし沈黙しましょう。』 by釈迦
余計なことを言わないことは大切です。たとえ、心のなかでは不快に思っていても、それをあからさまに表に出して不快を増やす必要は全くないのですから。
『なにか行動を起こそうと欲したならば、する、しない、という決断に迷わず、とにかくすぐに行いなさい。迷ったままで、ためらったままで、ぐずぐずして結構しないでいると、やらない間に好機を逃してしまうものです。』 by臨済
モーターの世界的大手・日本電産の永守社長も、「『ノー』の連発からは何も生まれない。『すぐやる』『必ずやる』『出来るまでやる』という、常に前向きな姿勢を持ってこそ、すばらしい成果が待っている」と言っていますね。
『貪欲は涅槃(悟りの世界)であり、怒りも愚かさも同じです。この貪欲・怒り・愚かさという三つの代表的な煩悩の中には仏道があります。悟りとは、貪欲などの煩悩と別にあるのではなく、同じ心のなかにあるものです。』 by最澄
貪欲、怒り、愚かさが三毒であり、これをなくすことが悟りなのかと、素人の私などは思っていました。だが、むしろこうしたものにどう向き合うかということが本当は大切なことだというはとても実際的な考え方です。