歴史”学”へ足を踏み出す人に贈るコンパクトな入門書:「世界史の流れ」レーオポルト・フォン・ランケ、ちくま学芸文庫

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懐かしいコンパクトな1冊を見つけたので紹介しよう。大学1年生の時、西洋史学の演習の授業で使った教科書です。レオポルト・フォン・ランケという歴史家、いや歴史学者の祖と言うべき人の本です。ざっくりとした世界史の流れを平易に解説しながらも、深く示唆に富む内容のある入門書。教科書の世界史とはまた違った領域に踏み出す最初の一歩にはうってつけの本と言えるでしょう。通俗的な”歴史とされるもの”から一歩踏み出すにも良いと思います。

それぞれの時代の歴史について語っている内容はどれも興味深いですが、まず彼が歴史を考える出発点となっている部分を今回は紹介するとしましょう。ランケは、まず進歩と指導的理念という概念について言及します。19世紀なので、いわゆるヘーゲル風の考え方―世界の歴史は人間の精神の発展の歴史であるという見方や文脈を意識して記述しています。当時の啓蒙主義や哲学の潮流を踏まえ、この点についてどう考えるかを明らかにした上で、歴史それ自体の話に移るのです。つまり、歴史を捉える上でのバイアスの解消から話を始める構図になっています。この視点は、現代人である私達にとっても重要です。

まず、進歩の概念ということについて、いわゆる進歩史観は歴史的にも、哲学的にも成り立たないとランケは言います。進歩については、最初に以下のようにまとめています。
多くの哲学者と一緒になって、全人類は与えられた原子状態から、一定の確かな目標に向かって発展し続けてきたと仮定しようとするならば、それには2つの考え方が可能であろう。すなわち、すべてを導く1つの意思があって、人類の発展を一つの点から他の点へと推し進めるとするか、あるいは人類の中に何か精神的な特質があって、それが事態を必然的に一定の目標へと駆り立てるか、のどちらかである。

しかし、哲学ではおなじみのこのような考え方は、成り立ちます。ランケは反論として次のとおり主張します。
哲学的に承認できないとするのは、第一の場合には、人間の自由は完全に破棄され、人間は意志のない道具にされているからであり、また第二の場合には、人間はまったく神であるかあるいは無であければならないからである。

さらにランケは、歴史的にも実証されないと言います。
まず第一に、人類の極めて多くの部分が現在もなお原始的状態であり、出発点そのままであるからである(中略)第二の誤謬は、幾世紀にもわたる進歩的発展が、あたかも人間の知識の能力の全部門を同時に包んでいたかのような全部門を同時に包んでいたかのように考えることである。

人類の進歩を考える時、我々は暗黙のうちに西洋世界だけのことを考えている可能性が高い点には留意が必要です(ビザンツが軽視されているのって、それも一因ですよね?)。人類全体、地球全体、歴史全体でみれば、ぞれぞれ濃淡があるのだから、一律に一方向に人類が進歩しているように考えるのは誤りでしょう。また、ある種必然的な展開があるかのような歴史理解、たとえば”いわゆる”マルクス主義的な歴史理解はランケの意見を借りるなら成り立っていないはずである。

以上の議論を敷衍して、ランケは以下のように述べる。
時代の価値はそれから生まれてくるものに基づくのではなくて、時代の存在そのもの、そのもの自体の中に存する。このゆえにこそ歴史の考察、しかも歴史の中における個体的生命の考察がまったく独自の魅力を持つ。したがって、歴史家は、まず第一に、人間が一定の時代にどのように考えどのように生きたかという点に、注目しなければならない。(中略)しかしまた、各時代がそれ自身、それぞれの権利と価値を持つとはいえ、それから派生したものを見逃してはならない。故に歴史家は、第二には個々の時代の間の相違をも識別し、その連続関係の内的必然性を考察しなければならない。そうすれば、この場合にある種の進歩があることは否認できない。しかし私は、この進歩が一直線に進むものではなく、むしろ河川がその独自の進路を拓いて進むようなものであると、主張したい。


ある時代から次への時代への発展によって、前の時代がその時代に従属していると考えるのは誤りである。もちろん、今日は昨日よりも良くなっているのだろうから昔はすべて悪という、単純で浅はかな理解も退けることができる。そして、歴史家が何に注目すべきかは、第一に「人間が一定の時代にどのように考えどのように生きたかという点」であり、このことは歴史の主役は人間であって、イデオロギーではないのだということを再認識させてくれる。

導入部の最後では、ランケは指導的理念についてこう言います。
指導的理念を、各世紀における支配的傾向以外のものとは考えることはできない。しかしこれらの傾向は、記述はできても、究極的に一つの概念にまとめるということはできない。それゆえに歴史家は、各世紀の大きな傾向を分析し、これら種々の傾向の複合体にほかならぬところの人類の大きな歴史を示さねばならない

この箇所は、アカデミックな世界のセクショナリズムへのアンチテーゼでもあります。今日、学者は専門化が行き過ぎて、それぞれが扱う領域が細分化されてしまっています。専門の研究対象だけを見ていては、見えないものもあるかもしれない。先述の通り「歴史家は、第二には個々の時代の間の相違をも識別し、その連続関係の内的必然性を考察しなければならない」のだから。

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この記事を書いた人

・現役世代を元気にしたいとの思いで新ブログを立ち上げ!
・本は2000冊以上読破、エッセンスを還元いたします
・金融機関で営業・調査部隊双方を経験。
・バックグラウンドは歴史とMBA

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