メディア論の必読書:「マクルーハン」ちくま学芸文庫、W.テレンス・ゴードン

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「マクルーハン」(W・テレンス・ゴードン)」を紹介します。メディア大進化時代に生きる我々にとって、マクルーハンの言説は重要な手がかりと思考材料を与えてくれるからです。

マクルーハンの基本的なアイデアとは、『テクノロジーやメディア(媒体)は身体の特定の部分を「拡張」する。しかし、単純に拡張だけが行われるのではなく、「拡張」された必然的帰結として衰退し「切断」を伴う』。この20年だけでも、メディアについて劇的な変化がいくつもあった。「拡張」と「切断」という概念を使うことで、新たなメディアの本質を捉えることができるでよう

マクルーハンに言わせれば、「話し言葉」ですらメディアです。「あらゆるメディアは経験を新しい形式に翻訳する力を持つ能動的なメタファーである。話し言葉は、人がその環境を新しい方法で把握するためにそれうを手放すことをかなえてくれる最初のテクノロジーである」(「メディアの理解」第6章、57ページ)。ルネサンスの黎明と近世の入り口において、活版印刷の登場によって「話し言葉」から「書き言葉」の時代になると、「「グーテンベルクの活字の発明は、線的で画一的で連続的、継続的な理解の仕方を人間に強制したのである」。書くことで人間は考えを深めると一般に言いますが、そのとき人間はリニアに物事を考えています。しかし、現代はパソコンの時代ですから、一度リニアに書いた文章を再構成することができます。長い書きものはそのとおりですが、一方でSNSは細切れになってしまいます。書く・考える行為はこのように使うメディアの影響を受けるのです。。

また、マクルーハンは「書き言葉に変形した時、話し言葉は聴覚空間時代に備えていた資質を喪失した。」といいます。ここで重要なメッセージは「メディアは身体の延長であり、感覚比率の変化を引き起こす」というものです。ニンテンドーDSやiPhoneが触覚を復権させたことを思い起こせばわかりやすいでしょう。

さらに興味深いことに「メディアにおいて、研究すべきは、その内容ではなく、その効果である。」とも言っています。このプラグマティックな視点は、ナチスの宣伝大臣ゲッベルスが、宣伝について効果を上げるかどうかが最も重要であると述べていることにも通じるかもしれません。とはいえ、両者の言うことに関連があるのも不思議なことではない。そもそも、メッセージとは、人間関係や行動の方向を変えるものであり(宣伝という意図)、そのようなメッセージを伝えるのがメディアだからです。すなわち、マクルーハン曰く、メディア=メッセージなのです。メディアを考える時、メディアはほかのメディアを包含する、すなわちメディア同士の相互作用といった点にも留意が必要です。メディア論の2つの前提としては、「私たちが見つめるものになる。」「私たちは道具を形作り、その後道具が私たちを形作る。」といったことをマクルーハンは述べています。

ロバート・ブラウニングの「人間は自分の手の届く範囲に甘んじてはいけない。そうでなければ何のために天国は存在するのだ?」をもじって、マクルーハンは「人間は自分の手の届く範囲に甘んじてはいけない。そうでなければ何のためにメタファーは存在するのだ?」と述べます。「遠いものを結び合わせて互いの中に潜在する類似に気づかせるのが想像力であるが、比喩は想像力の最も具体的な表出である。」と外山滋比古さんも述べていることから、比喩、中でもメタファーは人間が使う表現技法としてそもそも重要です。

しかし、マクルーハンはメタファーを次のようにさらに拡張します。「言語において、メタファーとは意識の拡張だから、メタファー自体も広義のメディアである」。したがって、「あらゆるメディアは、能動的なメタファーに、すなわち人間を変形させるテクノロジーになる」というのです。そもそも情報(information)とは構成される何か(whatever in formation)であり、つまりこれは、他のものとの関係によって決定されるあらゆる変形(transformation)が情報として保存されます。したがって、メディアはメッセージであるばかりか、メタファーという変形のためのテクノロジーなのです。

様々なメディアの変遷がある中で、言語についても検討する必要があります。言語とは、(思考を話し言葉に)翻訳し、かつ、文明化の家庭においてほかのテクノロジー(象形文字、フォネティック、アルファベット、印刷機、電信、蓄音器、ラジオ、電話)によって翻訳されてきたテクノロジーです。しかし、電子テクノロジーは言葉に依存しません。コンピュータは中枢神経組織の拡張なのだから、言語化を伴わずに意識を拡張し、言語の断片化と麻痺効果をうまく回避できそうです。すなわち、ある意味では普遍的な理解と統合への道なのです。

20世紀において、そして今も、関与度の低い単一感覚的な活字メディアから、関与度の高い複合感覚的な電子メディアへのシフトが進展しています。一例を言うと、、テレビは、公民権運動のデモやヴェトナム戦争の映像を視聴者に身近なこととして関与させました。ただし、マクルーハンは新しいメディアを礼賛しているわけではありません。たたとえば彼は、テレビについて好意的ではありませんでした。「精神をそれほど純化しても、バクテリアは防げない。ゆえに、テレビに抗うには、活字などの関連するメディアを解毒剤として摂取しなければならない。」「メディアの理解」、第32章、329ページ)と警句を発しており、孫たちにもテレビを見せなかったそうです。。

このことから、文化はわれらのビジネス=ビジネスはわれらの文化という言い換えもまた成り立ちます。テレビCMは二十世紀の洞窟芸術であるという。その理由は2つあり、細部の検討を受けるためではなく、効果の出るように意図されているから、また、個人の考えではなく、企業という集団の考えを体現しているからです。

クリシェ(常套句、紋切り型、使い古された表現)とアーキタイプ(原型)についての話も興味深いです。クリシェには繰り返し出会っているわけだが、そもそも頻繁に繰り返されるからクリシェなのです。それに対して、アーキタイプはカテゴリーであって、そこには追加が可能です。けれどもクリシェはカテゴリーではないので、そこに追加はできません。しかしクリシェを作り替えることはできます。クリシェとは拡張(extension)、プローブ(probe、探針、測定器)、過去を回復する手段(a means of retrieving the past)なのです。

さらに、メディアの意味を拡張し、クリシェについても再定義したうえで敷衍すると、以下のようになります。
「私たちの知覚は、クリシェであり(身体感覚は閉鎖体系だから)、コミュニケーションのためのあらゆるメディアはクリシェであり(身体感覚の拡張だから)、芸術はクリシェである(古いクリシェを回復するから)」。
「アーキタイプとは回復された認識、あるいは意識である。結局それは回復されたクリシェ―新しいクリシェによって回復された古いクリシェである。クリシェは人間の拡張のユニットなので、アーキタイプとは、メディアテクノロジーあるいは環境といった拡張の引用となるのだ。」(「クリシェからアーキタイプへ」21ページ)

加えて、メディアの法則を考える際の指針として次の4点があります。
・何を拡張するか
・何を衰退するか
・何を回復させるか
・何に反転するか
このようなフレームワークを用いて、新たなメディアが生み出すであろう変化を考えることができます。

以上のようにマクルーハンは様々な豊かなアイデアを述べてきたが、マクルーハンの考え方の特徴には次の4つがあります。
・固定された視点の否定
・複雑で連続的な議論の否定
・たくさんの章建てで展開する論文の否定
・線的構造からの脱却
先述の、書き言葉が人間に強制する理解の仕方、考え方をふまえて、それを乗り越えるためにこのようなことを意識していたことが分かります。この本もその影響を受けて、極めてユニークなレイアウトになっていて面白いです。

また、真理とは何かという問いに対して、マクルーハンはアガサ・クリスティーに登場する名探偵ポワロの言葉「Eet ees whatever upsets zee applecart.」、すなわち、「リンゴの手押し車(伝統的な営み・思考)をひっくり返すものすべてです」を引用し答えたといいます。このことは人工物、構築物にも適用可能です。さらに、「最近、気づいていないことは何か?」と自身に問いかけることから、彼はアイデアを見出していたといいます。

ここまでそのエッセンスの一端を紹介してきましたが、思考を触発する本として文庫はコスパが良すぎます。「痛快な理論が、あなたの脳ミソを過激にマッサージ!」というちくま学芸文庫らしくもない売り文句がありますがまさにそのとおりで、普段は学術書を読まない人でも、読んでて楽しくなる1冊です。

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この記事を書いた人

・現役世代を元気にしたいとの思いで新ブログを立ち上げ!
・本は2000冊以上読破、エッセンスを還元いたします
・金融機関で営業・調査部隊双方を経験。
・バックグラウンドは歴史とMBA

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