文化資本に勝ち組負け組、敬語、お金、給与、結婚離婚に、大学や想像力…雑多で世俗的なテーマに、独特の視点から語りかけてくれるエッセイ集。私たちが普段の会話で問題にしている事柄について、常識とはまた違った意見が聞ける点が面白いです。既存の考え方や問題意識に対して、言葉の再定義や、論点の変形を通して、ユニークな知見をもたらしてくれます。
恋愛と結婚の違いについての話も、興味深い箇所。恋愛では、共通点のある愉快なパートナーをゲットすればそれでよい。しかし、結婚においては、自分とは何の関係もない不快な隣人たちを身内として受け入れ、配慮していかなくてはならないのです。相手や、先方の親族だけではなく、生まれてくる子供もまた”不快な隣人”。だから、必要な人間的資質も異なります。恋愛においては快楽を享受し増進させる能力が必要とされる一方、結婚では不快に耐え、不快を減じる能力が求められる。結婚はエンドレスの不快をもたらします。しかし、それこそが他者と共生する能力を伸長させるのです。人間を人間たらしめているのは、まさにこの他者と共生する能力でもあります。
巷で言われる負け組論についても新鮮なとらえ方をしています。すなわち、負け組こそは21世紀のランティエ(近代ヨーロッパにおける金利生活者の高等遊民であり)、つまり文化の担い手になりうるというものです。既存の二分法の切り口で負け組と定義された社会階層はその実、扶養家族に縛られず、時間に縛られないで生きることができる、という見方もできます。分相応の暮らしのうちに、誇りと満足感と幸福を感じることができるのではないか、というのが筆者の考えです。近年では、DINKs(ディンクス、共働きで子供を意識的に作らない、持たない夫婦、またその生活観。 Double Income No Kidsの頭文字などを並べたもの)という生き方もありますね。その一方で勝ち組たちは、先行する(金銭的・社会的な)勝ち組たちをモデルにサクセスを目指すため、絶えざる不充足感に苛まれます。庭付き一戸建て・どちらの生き方を自身に取り入れるか、勝ち負けという幻想にとらわれず、再考するのも一興でしょう。
大学教育の項では、便利なオンライン上のシラバスにも、思わぬ欠点が潜んでいることを指摘しています。デジタルコミュニケーションは、あらかじめ検索するキーワードが分かっている情報の検索には便利だですが、自分が何を検索しているのかわからない場合には役に立たないというわけです。いわば、知っているものしか、注文できないレストランなのです。大学教育をデジタルコミュニケーションベースのものにしてしまうと、新入生は18歳当時の知的スキームに登録済みのものにしかアクセスできなくなってしまいます。だから、入学時の学生の既有情報を量的に拡大することではなくて、学生が今まで知らなかったような学術的知見やスキルに巡り合う場として、大学は価値があります。確知らなかったもの、未知のもの(人に言い換えられるかもしれない)に出会う場所として、大学という場は引き続き有用なのです。