歴史を学ばないと、変えるのが当たり前のことすら変えられない

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「歴史が与えうる以上のものを歴史に求めるべきではない。歴史は現在を正当化するために、過去を裁くような一種の裁判ではない。だから、我々は古代社会が完全に奴隷を認めていたということを口実に、古代社会を非難するべきではなく、技術のゆるやかな発達に基づく、このような事実の原因と結果とを理解しようとつとめるべきである。大勢の奴隷が安い費用で働くとき、どうして高価な機械を作るであろうか、と。」
 
 この文章はフランスの教科書(Fernand Nathan刊)の冒頭の章からの引用である。歴史教科書は今の基準を過去に当てはめてはならないということを、説明している。

 しかし、過去を裁くために作られる歴史も存在する。わかり易い例は、戦勝国が敗戦国に強要する歴史である。例えば、第二次世界大戦後のアメリカ合衆国が、日本に連合国の正義を承認させるための歴史観を定着させた事例だ。進駐軍は情報を独占し、原爆の残虐写真などの都合の悪い情報は公表を禁止した。また、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムすなわち、戦争に関する罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画を、専門の委員会をつくり実行した。このときに、それまで行なわれていた日本の歴史教育を改造し、アメリカが与える歴史観で歴史を教えるようにしたのである。
 
戦勝国の高揚感は、以下の、日本が降伏文書に調印した直後のトルーマン大統領の演説によく表現されている。
「今回の勝利は武器による勝利以上のものであり、圧制に対する自由の勝利である。我々の武装兵力を戦争において不屈にしたのは、自由の精神である。我々はいまや、個人の自由及び人間の尊厳が全世界のうちで最も強力であり、最も耐久力のある力であることを知った。この勝利の日に我々は、我々の生活様式に対する信念と誇りを新たにしたい。原子爆弾を発明しうる自由な民衆は、今後に横たわる一切の困難を征服できる一切の勢力と決意を止揚することができよう。」自信みなぎる力強い言葉はたいへんけっこうなのだが、原子爆弾については初めから一般民衆を狙い、万人単位の人間を殺しておいてよく言ったものだ。落とした側からすれば、こんなものだ。
 
さて、戦後75年経過した今も軍勢が駐屯し、空母及びイージス艦が多数配備されているのだから、アメリカに気を使うのはもっともな話だ。日本にとっては、戦争の永久放棄を建前としつつ、軍事のアウトソーシング化としてのアメリカ軍の利用価値を引き出すのは国益である。だが、日本は独立した国と言えるのだろうか。戦後75年間、そして今も、日本とアメリカは擬似的な属国と宗主国の関係にある。属国を保護国と言い換えても良い。戦争の永久放棄とは、自立した国ではなく、強国に従属する国の方針である。カルタゴやマケドニア王国はローマに敗れた後、ローマの元老院の許可なしに軍事行動をとることが禁止された。日米安保条約があるとはいえ、他国に過剰に従順であることは、独立国の取る態度ではない。日本の首相はアメリカの利害について絶えず注意を払い国政を行なわねばならないが、この意味で安倍首相は、米中の狭間で、両首脳をうまいこと巧みにいなしてバランスを取ったとも言えるのかもしれない。
 
 勝者は自らの規定する価値観を敗者に植え付ける特権を持つ。まことに、クラウゼヴィッツの言う通り、戦争とは暴力によって我が方の意思を相手方に強要する行為である。日本は他国が作成した憲法をいまだに保持している。詳細には立ち入らないが、日本国憲法は占領軍の英文の草稿を短い時間でそのまま翻訳したので、直訳調で抽象的な悪文として名高いと言われる。変化の積み重ねこそが人間の歴史であるが、憲法と現実の矛盾が発生していても、ただの一度も憲法を改正したことがないのは、非論理的なことと言わざるを得ない。各国の憲法改正の回数をあげると、アメリカ18回、ドイツ43回、フランス10回、イタリア6回、そしてスイスは119回、ノルウェーは139回にも及ぶ。自前ではない憲法を頑なに固守し、現実の変化に適応しようとしない国は、日本以外に事例がない。とはいえ、アメリカに押し付けられたから変えるべきだというのも、憲法を変えると戦争に巻き込まれるというのもどちらも的外れなのだ。
 
 一国平和主義という非論理的な思想がまかり通る理由は、日本の歴史学の貧弱さに根ざしている。有事を想定するのはタブーとなっていて、戦争と軍隊は絶対悪だと決め付けられている。ここには、理性や思考が欠落している。変えるのは当たり前のものを変えることがおかしいという人は、思考を停止している。憲法は宗教の聖典ではなくて、国の成立に係る統治の根本規範であり、時代に合わせてふさわしい形にするものであり、普通の国はそうしている。変える・変えないを議論するのはまったく的はずれな論点で、議論を戦わせるのはどう変えていくかということだ。
 
 戦国武将を取り上げたバラエティ番組はそれはそれで面白いのだが、日本人が向き合うべき肝心な近現代史の理解は軽視されているように見える。もちろん、歴史は過去の事実そのものではない。人間の理性が完全なる客観に到達できない以上、過去を過去それ自体として捉えることは不可能である。過去の事実は、直接知ることは出来ず、間接的にしか知ることは出来ない。間接的な情報には必然的に解釈が伴う。なぜなら、現代に生きる我々は、現代の思想、常識、価値観と無縁ではいられないからだ。
 
 だが、知らなくていいか、考えなくていいかといえばそうではない。常に歴史を考える必要がある。歴史とは、過去への問いかけと不断の再解釈の連続であり、その評価や解釈は固定されるものではなく、それは常に揺らいでいる。ゆえに、解釈は繰り返され、更新されねばならない。つまり、絶えざる検証の姿勢が必要である。だから、過去の事実を知ることだけではなく、事実について過去の人々がどのような考えを持っていたかを知ることもまた必要なことである。
 
 解釈や意味づけを先に規定し、それに都合の良い史料”だけ”を採用するやり方は不公正である。もちろん、仮説は必要だけれども、人間の考え方、史料の収集にバイアスがかかることを念頭に置かなくてはならない。そうしたバランス感覚をもって、歴史を振り返ってみると、自身の考えや印象が、既存の通説と変わってくることもあるのではなかろうか。今日のところは、憲法をとりあげてみたが、いかに現代の私たちが知らないうちにバイアスに取らわていたか、おわかりいただけただろう。変えるのが普通でどう変えるかが問題なのに、変える・変えないばかりを問い続けるのは決定的な論点の誤りなのである。

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この記事を書いた人

・現役世代を元気にしたいとの思いで新ブログを立ち上げ!
・本は2000冊以上読破、エッセンスを還元いたします
・金融機関で営業・調査部隊双方を経験。
・バックグラウンドは歴史とMBA

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