経済と無縁でいられる人はいませんよね。では、6つの経済古典のエッセンスを1000円以下でお手軽に手に入れられるとしたらどうでしょうか。本書「古典で読み解く現代経済」は、舌鋒鋭いウェブ上の論客として有名な池田信夫氏によるもの。現代経済に関わる6つのテーマをそれぞれ対応する6つの古典によって読み解くというコンセプトです。古典は、時代を越えて様々な立場、人物に読まれてきただけに、様々な点で豊かな示唆が得られます。
時には歯に衣着せぬダメだしをすることも多く、はたして本書が正統的な意味で古典の入門書になりえるかは疑問な点もあるものの、忙しい現代人にはとっつきやすいメリットがあります。学術的には部分的に異論もある点もあるかもしれませんが、古典とされる書物に思いがけない一面を見出す池田信夫氏の視点・解釈にも触れつつ、エッセンスを吸収する意義は大きいです。
本書で扱うテーマ、古典は次のとおりです。
・既得権を考える アダム・スミス「国富論」
・金融危機 マルクス 「資本論」
・イノベーション ナイト「リスク・不確実性・利潤」
・大不況 ケインズ「雇用、利子および貨幣の一般理論」
・自由主義 ハイエク「個人主義と経済秩序」
・財政危機 ミルトン・フリードマン「資本主義と自由」
以下、それぞれの章について、個人的に面白いと思った点など一部紹介していきます。
①既得権を考える 「国富論」(アダム・スミス)
「国富論」の原題は、「諸国の富の性質と原因についての研究」です。重商主義を批判する意図を持ちながらも、成長戦略や比較政策論について書かれた書物であるとも言えます。富の源泉は労働であり労働者がいかに能率よく労働するか、今風に言うと労働生産性であるというスミスの主張はいわゆる労働価値説の源流であり、アダム・スミスが経済学の元祖であるということをあらためて思い出させてくれます。
スミスが論じる主なテーマは重商主義批判と自由貿易の擁護であり、その内容は現代にもつながります。昨今論議を呼んでいたTFP(環太平洋パートナーシップ)、米中貿易摩擦(これはむしろ国防や覇権争い、技術剽窃のような観点が大きいですが)なども、スミスが批判するような重商主義者のごとき意見が散見されることがあります。今日においても、いかにも典型的な重商主義的な考えや、自由貿易への懐疑は未だ存在します。
そもそもの自由貿易の考え方とは、それぞれの人、企業、国が比較優位のある分野に移って効率よく生産すれば、長期的には全員が利益を得るというものでした。また、モノを輸出して外貨を貯めこむことは無意味であるというスミスの一貫した主張は、貨幣は中立であるという古典派経済学の代表的な命題につながる点も見逃せません。
重商主義の問題は一般的には保護貿易のことだと思われていますが、スミスが重商主義の根本的な問題と見ているのはむしろ、既得権の問題であるという筆者の見立てはユニークです。この点は、かの有名な「見えざる手」とも関わります。「見えざる手」は後世非常に有名になりましたが、実は「国富論」ではたった一度しか出てきません。しかもこの言葉が出てくる文脈は、あくまで輸入制限についてであって、市場経済の一般論ではないのです。
「生産物の価値が最も高くなるように労働を振り向けるのは、自分の利益を増やすことを意図しているからにすぎない。だが、それによってその他の多くの場合と同じように、見えざる手に導かれて、自分のまったく意図していなかった目的を達成する働きを促進することになる。」
いわゆる巷間広まっている「見えざる手」とは市場経済が自動的にうまく動くという一般論ではありません。「見える手」としての国家の介入に対する反語との解釈が、著者の持論です。その結論は、「スミスにとって重商主義の問題点は、貿易障壁よりも国家の庇護を受けて新規参入を排除する大商人の既得権」であったというものです。
私たちが学校で最初に習うあのステレオタイプと、原書の意図するところ、あるいは虚心坦懐に読んだときの解釈、識者の考え、それぞれ異なる場合が、古典には多いです。実際に読んでみるのが大切です。聞きかじった話の第一印象よりも、意外と面白い本が古典には多いと思います。
②金融危機 マルクス「資本論」
資本論と聖書との共通点は2点あるという見方は面白いですね。すなわち、最初から最後まで読んだ人がほとんどいないという点、もうひとつは、貧しい人を救うという高い理想がありそれを支える教義があるという点です。
貧しい人々の豊かな人々に対するルサンチマンと、インテリの貧者に対する道徳的な負い目がキリスト教とマルクス主義の流行の基盤であるという著者の見立てには、ニーチェの考え方が媒介になったのではないかと拝察します。
たとえば、”心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。”といったキリスト教独特の逆説的な言葉や、(ニーチェが考えるキリスト教の)その本質について、「キリスト教は弱者の宗教である」とニーチェは言っています。ニーチェに親しみのある人なら、池田氏の見出したキリスト教とマルクス主義のアナロジーに共感できるでしょう。
③イノベーション ナイト「リスク・不確実性・利潤」
リスクと不確実性、この言葉は自然と混同して使いがちな言葉です。あらためて、定義を確認すると、
「リスクと不確実性という2つのカテゴリーの実際的な違いは、前者においては母集団の中での確率分布は(先見的な計算あるいは過去の経験によって)既知であるのに対して、不確実性ではそうでないことである。その原因は、取り扱う事象がきわめて独自で母集団を作ることができないからである。」
さらに、ざっくり言ってしまえば、
リスク→サイコロやコイン投げのように、母集団がたくさんあって、どういう確率で何が起こるかよくわかっている事象
不確実性→同じことが二度と起こらない。客観的に測ることができない。
統計学の前提として重要なのはなんといっても正規分布ですが、もちろん、実際のところ、世の中の出来事は正規分布に従っているとは限りません。たとえば、金融商品の価格がランダムウォークになっていないので、95%ぐらいは正規分布で近似できても、残りの5%くらいは非常に大きな変動があり、理論的に予想できないのです。正規分布はもちろん基本なのですが、平均も分散も意味を持たず解析的に解けない「べき分布」により注目していくことも重要になります。
「平均リターンはマイナスかもしれないが、俺だけは儲かる」と錯覚して博打を打つのがギャンブラー。しかし、起業家もまたギャンブラーであり、こうした起業家=ギャンブラーが結果的にイノベーションを生み出して社会を進歩させるとナイトは言います
起業家がとるのはリスクと言われるが、実際はナイトの不確実性です。なぜかというと、何しろ起業家がやるのは、誰もがやっている既存のビジネスではなく、不確実性を伴う新規事業だからです。本書で紹介する事例はユニクロの柳井正さん。経営者が自分の責任で博打を打って、負けたらすぐ損切りするというやり方で不確実性を処理するしか無いのです。起業家、経営者の意義とはそういうことです。
④大不況 ケインズ「雇用、利子および貨幣の一般理論」
筆者曰く、ケインズの理論は新古典派の一般化にはなっておらず、新古典派の想定するように伸縮的に価格が動かない「短期の」理論であるため、長期的には価格が動いて調整され、新古典派の均衡状態が実現すると考えると論理的につながるのだそうです。
ケインズの理論は固定価格経済における短期的な調整の理論であり、一般理論ではないのだとしたら、ケインズを経済学原理の基本そのものと捉えると誤解してしまう恐れがああります。現代の動学マクロ理論では、数量調整の局面がケインズで、価格調整の局面が新古典派という形で統一しているとのことです。
⑤自由主義 ハイエク「個人主義と経済秩序」
普通の経済学者は完全な知識と合理性を想定しますが、ハイエクは人々の知識は不完全であるということを基本にして経済学を構築しようとしました。価格メカニズムの機能は、予想できない変化に対応できることであり、この時人々は完全な情報を持っている必要はなく、不完全な情報を新しい情報で修正できます。
「人々が誰も経済全体についての知識を持っていない時、異なる人々の心の中にある知識の断片を結合して、全体を指揮する知識がないと意図的に実現できないような結果をもたらすには、どうすればいいのか?この意味で、誰も計画しなくても、個人の自発的な行動により、一定の条件のもとで、全体があたかも一つの計画で作られたかのように、資源が配分することができることを示せば、比喩的に”社会的な心”と呼ばれることのある問題に答えを出すことができよう」
コルナイ・ヤーノシュの言葉を援用して筆者が言うには、以下のとおりです。
「すべての知識、すべての情報を単一のセンター、あるいはセンターとそれを支えるサブ・センターにあつめることは不可能だ。知識は分権化される必要がある。情報を所有する者が自分のために利用することで情報の効率的な完全利用が実現する。したがって、分権化された情報には、営業の自由と私的所有が付随していなければならない。」
⑥財政危機 ミルトン・フリードマン「資本主義と自由」
社会制度の設計にあたって、この書物から得られる示唆は多々あります。たとえば、教育問題。教育バウチャー(私立学校にも公立学校にも使える金券)は、たしかに競争原理が働くが、実際には労働組合が嫌がるので実行は困難です。それに対して、高校無償化により、公立学校が無償で私立高校が有料といった形にすると、公務員の既得権保護という点で、そもそも不公正です。
年金にまつわる諸問題を考えるとき、よく出てくるアイデアといえば、ベーシックインカムです。ベーシックインカムは、数学的には負の所得税と同じです。しかし、負の所得税は所得を調べたり脱税が出てきたり面倒です。その一方で、ベーシックインカムは何も調べず定額のお金を配るので、相対的に簡便であるという見方もできます。
経済学の原理原則について、政府が裁量的に経済政策に介入するのをやめて、ルールの設定に専念するべきというのが、リバタリアンの立場からは自然な考えです。ただし、グローバルな市場の力が大きくなって政府のコントロールできる範囲が小さくなったから、資本市場だけは規制が必要です。なぜなら、金融は、価格が上がったら、需要が減るというフィードバック・メカニズムが働かないためです。
さて、ここまで、古典とそれについての著者の解釈、私の付言をまとめてきました。経済学から得られる知見は、物理実験を真空で行うことと同じく、現実世界にそのまま適用するにはいかないし、するにしても、具体的な手段として成立させることを考え、それを実行しなくてはなりません。たとえば、利益に課税して、そこから配当された株主の所得に課税するのは明らかに二重課税という意見は、論理的には確かにその通りでも、だからといって、今現在、その論理はこの世に変化を与えているわけではありません。だから、そこに論理を後押しする情理が加わり、実現の手段がとられたとき、この世界の仕組みは少しずつ変わり良くも悪くもなるのです。
そのための1歩のひとつは、読書だ。人間は何もないところからものを考えることはできません。何より、私たちの考える問題は、すでに昔の人が考えていることも多い。様々な意見と本に巡り会うために、この新書はお勧めの一冊です。「経済学のエッセンス」を手軽に摂取する最初の一歩になります!