藤井聡太七段が棋聖位に初のタイトル挑戦をしている今日この頃、将棋棋士の人生論を取り上げてみよう。昨日の「不運のすすめ」に続き、「人間における勝負の研究」はタイトルどおり人生という勝負を論じた本です。著者の米長邦雄永世棋聖は、中原誠十六世名人ら、数多の強豪と激闘を繰り広げた異能の棋士。その生き方や棋風は”さわやか流”とも”泥沼流”とも言われます。本書は、勝負師中の勝負師が書いた”勝負”の本です。「機会に恵まれなければ、彼らの力量もあれほど十分に発揮されなかったであろうし、また力量を持ち合わせていなければ、機会も好機にならなかったのである」と、「君主論」でマキャベリは述べています。まずは実力を養い、そのうえで、いかにして勝負の女神に微笑んでもらうか。戦う男は、自分の力だけで勝つのではなく、運を引き寄せなくては勝てない。まして実力伯仲のプロ棋士の世界ではなおさらなのです。
また、人間が何かをする場合、軸になるのは「人生観」です。「運」「ツキ」といった不可解な力に接したとき、不可解な世界に踏み込んだとき、判断基準になるのは「人生観」です。将棋で最善手を見つけるのは大変なことですが、もっと大切なのは悪手を指さないこと。人生も同じで、いかにして悪手の山に踏み込まずに正しい道を歩んでいけるか。何でもかんでもやりたいことをやるのではなく、ここから先はダメだという点を明確にして、ある種の「許容範囲」を設けることもときには重要なのです。
勝負の3要素は「確率」「勢い」「運」であり、これらが最終的な実力の差となります。ここで、大切なのは「勢い」の裏には辛抱が必要ということです。年がら年中攻めているのはダメで、待つべきか打って出るか判断が求められます。つまりは、タイミングを見極めることが出来るか、ここぞというときに打って出るための準備をしているか、決定的場面で勇猛果敢に打って出られるかが「勢い」と言えるのです。
運を引き寄せるには、手を抜かないことと、著者は述べます。「自分にとっては消化試合であっても、相手にとって重要な対局であれば、相手を全力で打ち負かす」。自分の進退に影響しないけれども、相手の気力がものすごい時に、必死で勝とうとする姿勢が大切と説きます。この考え方は「米長哲学」として後進の棋士たちに受け継がれています。
ところで、雑事に忙殺されないコツがあります。自分がしたい仕事、するべき仕事があるなら、席に着いた瞬間から、必死になって取り組み始める。すると、その気迫は周囲に伝わって雑事を頼めなくなり、もしくは、雑事を頼むときには都合を聞いてくれるようになるというものです。
本当に強くなりたい、勉強をしたいと思ったら、独立心つまり孤独に耐えられるような力が必要となります。最終的に頼れるのは、自分自身なのだということがわかってないと、本当の成長は出来ません。先人の残した業績を無条件に受け入れるのではなく、自分で挑んでみて、納得してから受け入れる姿勢が必要です。ある局面を見て、自分の力で必死に極限まで読み、考え抜くことの繰り返し。この将棋の勉強は、自分の力で自分の結論を出すことであり、他の勉強にも応用可能というわけです。
さらに「何に集中すべきか」がわかることが集中力につながります。自分が今何をなすべきかという判断がなされていないと、漫然と時を過ごしてしまうことになるのです。
3人の兄が東大に行ったことについては、高校3年間で毎日7時間勉強し、昼間は学校でほとんど昼寝をしていた(?)と考えると、受験勉強に6000時間かけたと算定。一方で自身は、中学から高校までの6年か、毎日5時間の将棋の勉強にかけたので、こちらは約10000時間となります。マルコム・グラッドウェルの「天才!」に「一流になるためには10000時間の学習が必要」とありますが、やはりその通りですね。
また、強くなるためには、物事の好き嫌いをなくさねばならないと言います。人間を鍛えるときに、好き嫌いという甘えた考えは許されない。将棋においては、弱点や苦手意識は致命傷と言えるでしょう。だから、内弟子の嫌いな食べ物には、女房に言って2倍にしたとか。
勝ったあと、負けたあとも大事。勝ったあとは、自慢せずに、ちょっと笑顔を見せるくらいにとどめ、負けた人が不愉快に感じないよう心がける。強い者は威張る必要が無いから威張らないのです。
一方で、男が勝負に負けた後は、じっとしているに限る。負け惜しみや言い訳をせずに怒りを抑えてひたすら耐え、そのうえで、今に見ていろとがんばればよい。男が成長するのは、全部の力を出し切るとき。危険を承知であえて踏み切っていくうちに、男は成長していくのです。
カンは一つの仮説と言えるでしょう。創造のためには、偶然の要素と同時に、目の付け所、カンという働きが加わわっていなければ、その偶然、いわばチャンスを生かしきることは出来ないのです。カンは、努力・知識・体験から生まれ、自分の形勢判断や分析に基づいて、自分の持論という形で出てきます。仮説を立てる訓練を常日頃からすることが大切と、筆者は述べます。
真剣な時間があれば、その反動として、遊びほうける時間があってもよいというの著者の持論。このバランス感覚が「よく遊びよく学べ」の金言に通じます。だから、遊ぶときには罪悪感を持ってはいけない。「遊びとは仕事の影である。」のだから、大きな仕事の影は、やはり大きくて当たり前というのも一つの考え方です。
将棋は、必ずどこかで泥試合になるのですが、泥試合になれば本当の力と力の勝負になるので、強い人ほど泥沼で戦いたがるのだそうです。大山康晴十五世名人は、まさにそのような戦いを好んでいたが、これこそ自分が一番強いと思っている証拠と筆者は喝破しています。
むずかしい局面においては、弱者は安易な結論を出したがり、強者はなかなか結論を出さないというのも、いかにもという感じです。羽生さんの強さは「手をわたす」点にあるとはよく言われますが、まさにそのとおりでしょう。適切に”待っていられる”ことも実力のうちで、弱い人は待ってられないと筆者は分析しますが、「男女の関係も同じで、惚れて弱みのあるほうが先に感情を表に出してしまうのだ」という指摘もまさに米長流。
形勢判断は大切で、これを誤れば勝負は終わってしまいます。「形勢のよいときはじっと動かず、形勢が悪くなったときには、必死で我慢して、どこで逆転するかの方策をたてる。将棋においては、相手が間違えたときにそれを確実にとがめて逆転するのが腕の見せ所である。」と述べていますが、人生においても応用できそうな考え方ですね。
「”男らしさ”とは大局観であり、”理性”と”思いやり”でもある。情と理性とは全く相反するものではないが、その2つの対立があったときは、まず自分の情を捨て、他の人の情と理性の両面から納得のいく方法を選べる人。こうひとが男らしい男だ。」男の懐の深さとは、こういうことを言うのでしょう。かくありたいものです。さわやか流の極意も述べています。「金銭的な意味以外で、貸し方に回ること。これがさわやかに生きる要諦だ。例えば、怒鳴りたいときにも、そのまま怒りを爆発させるのではなく、我慢してニコニコしていられるかどうか。こういう時自分の感情を抑えてニコニコ笑っていられれば、これも貸し方に回った生き方であり、思いやりでもある。こうしたことは実力あるものにしか出来ない。知識、能力、人格、金銭…何か優れたところがあるからこそ、ゆとりや余裕を持つことが出来、貸し方に回ることが可能になるのだ。」
以上のとおり、本書は昭和57年に書かれたものですが、いつの時代も変わらぬ勝負と生き方の哲学が盛り込まれてます。米長邦雄永世棋聖は、様々な逸話集にもあるとおり、棋士の中でもとりわけユニークな存在。高校1年の時出会った奥さんに、プロポーズしたときの話をはじめとして、豊富な恋愛体験を具体例にして、勝負を語る場面も多く、多数の面白エピソードが他にも満載です。恋愛も1つの勝負であり、そして勝負事ではその都度勝利の女神を振り向かせなくてはいけない。人生という道に待ち受ける、様々な勝負の時。戦い続ける男にとって、必読の一冊と言えるでしょう。