1点を争う接戦。「代走・鈴木尚広」が告げられると、巨人戦の球場はにわかに大歓声で沸き立つ。8割以上の成功率を誇るスペシャリストが塁に現れることは、相手チームにとっては虎の子の1点をとられる可能性が高まったことを意味する。盗塁を警戒する投手と捕手は緊張につつまれ、守備についている野手勢や指令を出すベンチはそわそわし始める。鈴木尚広選手の存在感で、打者への意識は明らかに減少してしまうのだ。その結果、たとえば盗塁を警戒するあまり直球ばかりになるなど配球を狭められた投手が痛打を浴び生還することもあろう。また、警戒率100%のなかでまんまと次の塁を奪取し、ヒットにならないような当たりですらどさくさに紛れて本塁に生還することすらありうるのだ。
と、ちょっと前の巨人の終盤戦に想定される光景を描写してみました。強いチームは接戦に強いとよく言われます。どうしても欲しいその1点が取れる理由の一つは、現役当時の鈴木尚広選手の存在でした。言い換えると、その確かな走塁技術と能力による心理的プレッシャーが終盤の競り合いの決め手に直接なる以外にも、ピッチャーの集中力低下、変化球を投げ込む比率の低下に寄与したことでしょう。鈴木尚広といえば、通算228盗塁のうち、(当然ながらいつにもまして警戒される)代走で132盗塁を記録。通算成功率は82.9%であり、通算200盗塁以上の選手では広瀬叔功の82.89%を抑えて史上最も高い成功率だとか。まさに、プロの仕事人です。
鈴木尚広選手は本書で以下のように語ります。
「野球というスポーツは、結構ミスで勝てるところがありますのでそういうミスが出る要素を、自分が塁にいることによって引き出すことができるのか。いろいろなことを考えて慌てさせてミスを誘えることは、プロの勝負の中では必要なことだと思っています。」
盗塁には単に次の塁を取る以上の意味があるのである。それは数字には現れないのかもしれません。しかし、チームの勝利には陰ながら貢献しているのでしょう。
では、職人肌の鈴木選手は、極度の警戒を行う投手から牽制球を浴び、その中で刹那の瞬間にスタートを切るにあたってどのような心構えを持っているのっしょうか?
「自分に余裕が無いと、どうしても周りの環境に飲み込まれてしまうんですよね。でも、余裕を持っていれば、自分のことを客観的に見ることができて状況がちゃんと見えます。だから、せかせかしない。慌てない。つねにそういう状況を作るように準備をしています。」
この考え方はリードの取り方にもあらわれています。際どい大きなリードを取るのではなく、自分が帰れる、ちゃんと戻れるセーフティリードをしっかり把握して、スタートを切るための心の余裕を持つのだそうです。
「今の私は失敗しても、それに対して100パーセントの準備をしてきたので、もし、結果がダメでも結構晴れやかな気持ちです。そこまでのことをやってきたという自負が私にはあります。結果というのはどう転ぶかわかりません。100パーセント成功する人間なんていないでしょう。でも、私は準備については100パーセントのことをしています。朝から野球のことを考えて、監督の意図を汲みながら、全部読みながら、つねに成功率を上げることをやっています。そこだけは、自分でできると思っています。それに対して、それを上回った選手や相手やチームがいたなら、それはもう拍手するしかありません。そのくらいの気持ちで臨んでいます。」
結果は100パーセントコントロールできるものではありません。だから、自分がコントロールできる部分は「準備」なのです。「代走」が試合に出ている時間は短いです。しかし、その短い時間のため準備を惜しまないことで短い時間を試合のクライマックスの濃密な時間とし、結果を出すのです。
盗塁という野球における心理戦の芸術において、技術の前に精神面も重要です。
「もちろん、思うように行かない時もあります。それは自分でうまく折り合いをつけてやっていくしかないので、しっかりと受け止める。ただし、あまり、マイナスと捉えないようにすることです。今あることをマイナスに捉えるよりも、それを生かして後々しっかりプラスに変えられるようなことを自分で考え、実行していくこと。それを継続することのほうが大事だと思います。」
前向きな考え方は、心だけでなく、体も人生も前に進めていくことにも繋がります。
本書では、肝心要の走塁技術についてもその奥義が惜しみなく語られています。同業者のみならず、明日の鈴木尚広を目指す野球選手、運動会を控えかけっこで一番になりたい子供を持つお父さん方にもきっと役立つでしょう。
『また、足の裏側の蹴り方については、現在、私も勉強しながらいろいろ試している最中ですが、基本的には「力感のないイメージでかかとの内側だけを意識して踏み出す」、という走り方を目指しています。(中略)シンプルに「かかとの内側を使って走る」。ただそれだけなのです。人間は、走っている時にかかとから足を前に出そうとすると、体の重心は必ず前にいきます。でも、つま先の方から足を前に出そうとすると、人間の足というのは自然と地面を蹴ろうとします。蹴ろうとすると、自分の体重が一度必ず前方への推進力を打ち消す後ろ向きの力が発生するのです。そのため、ほんのわずかな量ではありますが、「後ろへ行って前」「後ろへ行って前」という非効率な走り方を一歩ずつ繰り返すことになります。しかし、かかとの内側で踏み出せば効率よくそのまま前へ行くため今はそういう意識で走っています。』
実践に裏打ちされたロジカルな走り方の考え方は腑に落ちる。まさに真理だと言えよう。
また、スライディングについては以下のように述べています
『ベースは終着点ではなく通過点。ベースまでの走るスピードを落とさないための通過点なのだ、というイメージを持つことができれば、ロスのないスライディングができると思いますし、スライディング後も、すぐに体制を整えて走ることができるのです。ですので、私のスライディングを参考にしたい人がいましたら、ベースが「ここに置いてある」ではなくて、「スライディングをしたらここにベースがあった」というイメージを大切にしてください。(中略)もうひとつ、スライディングのイメージを言葉で表現するとしたら、ベースをまたいでタッチに来る相手野手の股の下をすり抜けるつもりで滑りこむ。ベースが近くて怖い?いえ、実際にやってみれば、怖くはないですし、怪我もしません。むしろ、相手の野手のほうが恐怖を感じると思います。』
このような具体的な盗塁の技術に加えて、本書からは様々な「仕事人」鈴木尚広の考え方を学ぶことができます。たとえば、道具へのこだわりは、ユニホームの裾はオールドスタイル、ソックスは五本指ソックス、スパイクは最初にしっかり足型をとってもらい制作を依頼する、形状では足の甲のところにホールドする部分をつくってもらうくらいだそうです。しかし、そのくらいであって、「結局、道具を扱うのは自分自身」という考え方が根底にあります。プロ野球の世界で自分の生きる道を見出し、確かな技術と自信を持ち結果を出し続ける男、鈴木尚広は最高にかっこいいプロ野球選手の一人でした(家庭に係る事情は残念ながら別として)。明日の自分自身を作るため、野球ファン以外の方にもぜひとも一読を推奨したい1冊です。