実は日本人しか読めないドラッカーのコンパクトな自伝!:「知の巨人 ドラッカー自伝」P.F.ドラッカー著、日経ビジネス人文庫

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“波乱万丈”の20世紀を生き抜いた「知の巨人」の自伝です!生誕100周年に、ドラッカー最後の著作が文庫になったものです。日本語版しかないので、この本を母国語で読めるのは実は日本人だけという貴重な1冊でもあります。!2005年、95歳で亡くなる前に日経新聞の「私の履歴書」に連載された記事に、さらに訳者の解説や小話が加筆されたおトクな一冊です。

言わずと知れた「マネジメントの父」にして、社会、歴史、政治学、あらゆる分野に精通した未来を予見する文筆家ドラッカー。数多の名著を書き上げた著者は、20世紀を生き抜いた歴史の証人であります。その経歴は象牙の塔で築かれたものではなく、様々な仕事と実務に裏打ちされたものです。ざっと人生をたどるだけで、いかに波乱万丈かわかります。戦前だけでも、オーストリア→ドイツ→イギリス→アメリカと移り住んでいます。

ドラッカーはオーストリア帝国の首都ウィーンに生まれ、政府の高官アドルフを父に持ちました。両親を訪ねる常連客は、シュンペーターやハイエク、ミーゼス等著名経済学者や、後のチェコスロヴァキア初代大統領トーマス・マサリク、さらには心理学の祖フロイトといった錚々たる顔ぶれだったそうです。

1927年にドイツに移住し、ハンブルク大学に通いつつ、貿易会社の見習いとなります。この時、図書館で多読乱読し、本物の「大学教育」を受けたのだと言っています。1929年には、フランクフルトで証券アナリストとなりました。しかし、世界恐慌で会社は倒産。「ゲネラル・アンツァイガー」紙の新聞記者となります。台頭著しいNSDAP(ナチス党)の党首ヒトラーと、その右腕ゲッベルスには何度もインタビューを行ったそうです。また、フランクフルト大学にも通い、国際法の博士号を取得。後に妻となるドリスとこのとき出会います。

1933年にはイギリスに渡り、ドリスとロンドンの地下鉄で運命的再会を果たします。フリードバーク商会では優秀なマーチャントバンカーとして働き、週一回ケンブリッジ大学でケインズの講義を聴講しました。

1937年には、ニューヨークに移り住み、複数の雑誌や新聞に寄稿する記者になりました。1939年には「経済人の終わり」を出版。今後の歴史をも見通した著作はウィンストン・チャーチルにも評価され、英米でベストセラーに。

以後、大学教授としては、ベニントン大学、ニューヨーク大学教授を経て、2003年まで、カリフォルニア州クレアモント大学院教授を歴任。またコンサルタントとしても活躍し、様々な著作を世に送り出し影響力を持ちました。「経営戦略」など経済活動において「戦略」や「民営化」など多くの概念を世界で初めて自身の著書に記載したことでも知られています。

20世紀の生き証人でもあり、文筆家でもあり、95歳まで現役を貫いたその人生はあまりにも魅力的です。非情に明快な文章で書かれており、実に読みやすいです。時にはユーモアも交え、読み物としても面白く仕上がっています。例えば、”人生最高の瞬間”であるドリスとの再会のくだりは、思わず笑ってしまっいました。エスカレーターでの微笑ましいシーンが目に浮かぶようです。

経済学に興味のある人たちやビジネスマンには、一人の人間としてのドラッカーの人生は、実に興味をそそられるでしょうし、もちろん、ドラッカーに馴染みのない人たちでも、この偉大な人物の生涯を面白い読み物として楽しめると確信しています。ドラッカーは90歳を越えてもなお、びっしりと予定が書かれた手帳を見せて、「これが私の’引退’だ。」と言ったそうです。老いてますます盛んだった著者の人生。この本を読めば、定年退職した人たちも、今一度生きる元気が沸いてくるでしょう。このブログを読んでくださっている方は、生涯現役世代なのです。

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この記事を書いた人

・現役世代を元気にしたいとの思いで新ブログを立ち上げ!
・本は2000冊以上読破、エッセンスを還元いたします
・金融機関で営業・調査部隊双方を経験。
・バックグラウンドは歴史とMBA

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